そーきちの系譜

そーきち略年譜

1960年 誕生

1990年 結婚

1993年 長女誕生
1995年 長男誕生

1998年 東京支社へ転勤
1999年 日本大学法学部入学

2002年 剣道再開
2003年 本社報道制作部に転勤 

生まれた町

 熊本県の山奥、大分県との県境がそーきちの生まれた町。
人口1万人余りの小さな山村である。阿蘇の山深い自然に溢れた町だ。
 自宅の裏には小川があり、6月になるとホタルが乱舞した。
すぐ近くには「地獄」がある。と言っても、あの閻魔大王の地獄ではない。「湧水池」である。「清冽」という言葉がふさわしいきれいな水が懇々と湧き出していたその池を近所の人たちは「イガワ(漢字で書けない)」と呼び,洗濯や飲料水にと生活に利用している。大きなケヤキはいまもあるのだろうか?
 「両神社」もすぐ近くにあった。杉の巨木が何本もある古い神社だった。毎年秋のお祭りは賑わっていた。境内は子供たちの格好の遊び場だった。


小学校時代

 小学校は自宅から歩いて5分もかからない場所にあった。遅刻はしょっちゅう。始業の鐘が鳴って家を出て丁度よかった。
 イタズラ坊主だった。町唯一の赤字ローカル線を止め駅長室にラチられ、こっぴどく怒られたこともあった。
 プラモデル作りに夢中だった。中でも「タミヤ」の1/35ミリタリー・シリーズはほとんど作った。勉強の「べ」の字もしなかった。
身体は大きかった。


中学校時代

 中学校は小学校のすぐ隣にあった。
町唯一の中学校である。
町内にいくつかある小学校の生徒が集まり学年約6クラスになった。もっとも一番上の姉貴の頃は10クラスあったらしい。山村は過疎が始まっていた。
 友人の勧めで「剣道部」にはいった。ところが、この部がとんでもない部だった。
「先輩」方は「鬼」であった。「監督」はもっと恐ろしかった。給食を食べ5時間目が始まる頃には稽古の事で憂鬱になっていたものだ。もちろん試験中も休みは無かった。
25人の新入部員は夏休みを過ぎた頃にはわずか7人になっていた。この7人は卒業まで頑張った。
 2年生になって同じ厳しさを後輩に継承したら、なんと1年生は0人になってしまった。ちょっとだけ後悔した。
 県大会出場を目指し、主将として部をまとめた。通常の稽古のほかに夜間稽古も行い、地域の剣道家たちが山ほど稽古に来た。しかし、最後の大会で宿敵の中学に決勝で負けて県大会出場はかなわなかった。
 ギターも大好きだった。友人達とバンドを結成し文化祭で歌った。
 成績はそれなりに良かった。熊本市内の有名県立高校を目指していた。
生徒会副会長、剣道部主将と人生の中で少しだけ輝いていた時期でもある。


高校時代

 高校は熊本市内の私立高校に進学した。仏教系の進学校だった。少数精鋭を標榜する学校で学年4クラスしかなかった。東大にも毎年合格者を出していた、医学部進学者が全体の3割はいた。
1年次はそれなりに成績も良かった。医学部を目指していた。
剣道部に入部した。同じ敷地内にあるスポーツで有名な高校と一緒に稽古した。
自宅からは通学できなかったので「寮」に入った。この寮が死ぬほど楽しかった。先輩・後輩の関係も緩やかであった。したがって勉強も全くしなくなった。成績は急降下し2年最初の実力試験で学年最下位という名誉な記録を作った。3科目の合計点が国語の平均点より低かったことを覚えている。
医学部志望はあっという間に消し飛んだ。剣道も徐々に疎遠となりほとんど行かなくなった。典型的な軟派の不良だった(爆)。
 楽しい寮生活も2年の終わりで終わった。「喫煙」が発覚し「退寮」になってしまった。高校の近くに下宿した。



転勤
をきっかけに

 1997年6月、アメリカの「UCLA」へ短期留学した。「デジタル時代」を迎える放送局が将来どの様な道があるのかを研究するもので、わが社の系列局15人とともにカンヅメになって勉強した。
この留学がある意味人生の転機だった。自分の仕事を体系的に論理的に勉強したいと思っていた。悶々とした日々を送っていた矢先、東京支社への転勤の辞令をもらった。
東京で何かが出来るかもしれない、こう考えていたある日、本屋で何気なく「社会人入学」を勧めた特集本(題名失念)を見つけた。「これだ!」とおもった。
 それからリサーチを始めた。会社(中央区)から自宅(東京北部)のなかで「通学と通勤にムリしない場所」にあるか?「授業時間」はどうか?何よりも「何を勉強するか」を中心に探してみた。
その結果以下の大学を志望の候補にあげ、受験要項を取り寄せ考察した。

○日本大学法学部新聞学科(現在の仕事に一番関係ある学科)
○専修大学法学部法律学科(著作権や知的財産権などを学ぶ)
○國學院大学文学部史学科(実は歴史が一番やりたかった)
○東洋大学社会学部社会学科(マスコミ論の講座があった)
○明治大学文学部史学地理学科(歴史を学ぶ)


日本大学法学部

 結局「日本大学法学部」を第一志望に決めた。職場から地下鉄で簡単にアクセスできた。何よりも「新聞学科」という学科に惹かれた。新聞学とは英語で言う「ジャーナリズム学」である。現在の仕事を見つめ直すのにも丁度よかった。
受験は「書類選考」「小論文」そして「面接」だった。日大のほかにも専修大学法学部を受験した。幸いにも両方合格した。


講義は「夜」

 進
学したのは「夜間」である。カリキュラムは16時20分からだが、18時からの講義を受けても充分に単位取得は可能であった。ただし、土曜日は13時から4コマ取った。
17時30分に終わったらダッシュで地下鉄に飛び乗った。
終了は21時10分だ。食事は家で食べたり学友と酒を飲んで帰った。
同じ目的をもった社会人学生達と出会った。学内の他にも他大学の学生とも交流を持った。

 明治時代、神田には「日本法律学校(日本大学)」「英吉利法律学校(中央大学)」「明治法律学校(明治大学)」「専修学校(専修大学)」などの夜間法律学校があった。窓からは「灯り」がもれ、学生達はあすの日本を背負うべく苦学した。
秋の夜長、月の光と窓のあかりを明治の人は「夜学」を「季語」とし沢山の句が生まれたそうである。「夜学生」の生活に充実し満足していた。沢山の師と出会った。


ゼミナール

 
3年次から目的だったゼミに入室した。向後英紀教授のゼミで、「メディア・リテラシー」について研究した。
日々、テレビや新聞などのメディアをとおして情報が一方的に流れている。そこには必ず送り手の意思がある。これを受け手の視聴者・読者が正確にその意思を読み解く力の事を「メディア・リテラシー」という。また、誰もがインターネットなどを利用して送り手になる事も可能なのだ。日本ではまだ始まったばかりの学問だが、ますますメディア・リテラシーは教育上でも重要になって来るだろう。先進地のカナダや欧州の文献で学び、辞書を片手に翻訳しレポートにまとめた。4年次は仕事が多忙になり、ゼミに足が遠のいたが、教授と相談しなんとか卒論を書き上げ提出する。
向後教授には物凄く多くのことを学んだ。


「転勤」そして「卒業」

 2002年12月16日、内示が出た。本社報道制作部勤務を命じるものだった。4年半の公私共に非常に充実した東京支社勤務だった。本音はあと2年は東京に居たかった。大学院を目指していたからだ。そして1月から約2ヶ月間、お台場の局で生放送のプロデューサー研修を受け、2003年3月に正式に転勤した。
 本社に帰ったらニュース&生活情報番組のプロデューサーになった。毎日、帰りが午前を回り、当然休みも全然取れなくなった。これまでの生活が一変した。もちろん卒業式にも出席することができずに残念な思いをした。



「日常」

 
朝9:00に出勤。おもむろにデスクのPCを開きメールを確認。スタッフが続々と出社する。それから企画の立案、番組の相談、ニュース項目の確認、会議と息をつく暇も無く午前中が終わる。昼食の後、編集会議、MC会議をへて、リハーサル、そして本番と慌しい毎日。19:00に終了し、明日の企画の相談やプレビューをして帰宅する。
楽しみは、金曜日夜からの剣道部の稽古と土曜日にある子供達との剣道だ。ストレス発散に最適である。